憲法、というと思い浮かべるのは、中学校で勉強した日本国憲法だろう。当時、友達同士で誰が1番条文を暗記できるか競って、僕も1条から13条くらいまでは暗記した。
けど103条すべて暗記したUくんが現れてからは、すっかりモチベーションが下がって、大人になるまで憲法のことなんて忘れていた。
そんな憲法。改めて勉強したらどうやら僕の知ってる日本国憲法だけじゃなく、色々な意味の憲法があるらしい。
といっても憲法の種類がたくさんある、という話ではない。憲法を語る上での分類とでもいおうか、そうした区別をして論じる時のカテゴリみたいなものである。大きな分類として次のようなものがある。
形式的意味の憲法と実質的意味の憲法
最初に述べたように、憲法と言われると「天皇は、日本国の象徴であり……」の第1条から始まる”あの”日本国憲法を想像すると思う。
こうした憲法は日本だけじゃなく、もちろん世界各国にあって、アメリカのアメリカ合衆国憲法、ドイツのドイツ連邦共和国基本法など、国のルールとして明文化されている。明文化、というのは文書で表現されていることをいい、またこうした文書で表現された法を成文法という。
そして、このような成文の憲法を形式的意味の憲法という。要するに憲法、という形でちゃんと文書で表現されていれば中身はどうであれ、形式的意味の憲法と呼ばれることになる。大事なことなのでもう一度言うが「内容、中身は関係ない!」ということである。
一方、成文、不文(文書化されていないこと)問わず、内容が国家の統治の基本を定めた法としての憲法を実質的意味の憲法という。統治、というのは主権者がその国の領土や、その国に住む人民を支配したり、おさめたりすることである。
日本の憲法は、国家の統治を定めた法であり、日本国憲法という形で成文化されているから、形式的意味の憲法であり、実質的意味の憲法でもある。
イギリスには憲法という成文法はないが、慣習や判例による国家の統治に関わるルールが存在しているため、形式的意味の憲法はないが、実質的意味の憲法は存在することになる。
実質的意味の憲法は、さらに固有の意味の憲法と立憲的意味の憲法に分けられる。
固有の意味の憲法と立憲的意味の憲法
さきほど成文、不文問わず国家の統治を定めた法としての憲法が実質的意味の憲法と述べた。では、国家の統治を定めてさえいれば、人権の保障がされていないような、例えば独裁者の好き勝手にできるような憲法でも憲法と呼べるのだろうか。
ここでちょっと思い出して欲しい。中学の日本国憲法の授業で、基本的人権の尊重という言葉を習わなかっただろうか。基本的人権とは人間が生まれながらにしてもっている当然の権利のことで、誰からも差別されず、自由に、人間らしい生活を営む権利などのことだ。
ついでに、三権分立という言葉も習ったと思う。立法(国会)、行政(内閣)、司法(裁判所)のそれぞれの権力がお互いをチェックしあって、権力がどこかひとつの機関に集中しないよう、権力の乱用を防ぐため分散させることである。
そう考えると、こうした人権保障がなければ憲法と呼べないような気がする。実はこのように人権保障がなければ憲法とは呼べない、という考え方、思想のことを立憲主義と呼んでいる。
そして、立憲主義のもと、国家権力を制限して、国民の権利や自由を守ることを目的とする憲法のことを立憲的意味の憲法(または近代的意味の憲法)という。
反対に、こうした立憲的意味ではなく、あくまでも国家の統治、国と人民を律するための規範のことを固有の意味の憲法という。
そうすると、先に述べたような独裁者が好き勝手できちゃう憲法は、立憲的意味の憲法ということはできないが、固有の意味の憲法、ということはできる。そのため、固有の意味の憲法はいつの時代のどのような国であっても存在する。
ちなみに内閣法や国会法、国籍法などは憲法ではなく法律だが、国家の統治や国と国民の間に関する法であるため、固有の意味の憲法に入る。
立憲的意味の憲法の重要性
ところで固有の意味の憲法の”固有”という言葉が分かりづらくないだろうか。固有、というのは元々は、とか元来の、という意味がある。
そもそも立憲主義がでてきたのは歴史上わりと最近の話である。そのため、立憲主義に基づいて制定された憲法の歴史より、時の権力者が好き勝手に憲法を制定してきた歴史の方がずっと長い。
そういう歴史を考えれば、憲法は思想や何かしらの理念みたいなものがあるわけでなく、単に国家の統治に関する基本をまとめたもの、というのが元々の姿である。そのため、元々の、固有の意味の憲法、といわれるのである。
このようにひとことに憲法といっても、色々な意味があるが、中でも立憲的意味の憲法は、これまでの長い歴史の中で、人類(人民)が権利の保障を勝ち取ったということで、優れた特徴があり、憲法を学ぶ上ではもっとも重要だといえる。
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